第0話9
「はじまりの、瞳の扉のその向こう側」
月食後、ダカート号は元の暮らしに戻っていた。
海賊船として、他の船を襲い、金品を巻き上げる日々。目的などないまま、同じ海域を
行ったり来たりして獲物となる船を探し、そして襲う。奪ったお金で、パーッと飲んで歌って
騒いで、楽しんで、また船を襲うの繰り返し。
そんなある日のこと──。
「ベル、水をもらえないか?」
「なんだい、胃でも痛いのかい?」
厨房に顔を出したのはカーティスだった。夕食の下ごしらえをしていたベルは、彼をからかい、
笑うと、コップに水を汲んで手渡した。
ベルの質問には答えず、カーティスはコップを受け取ると、うれしそうに笑って見せた。
「もうすぐ金塊を積んだ商船の近くを通るんだ。久し振りに儲けのチャンス到来だ」
「そうかい。うまくいくといいね」
それから少し世間話をしていたところに、ダイクが食堂に入ってきた。
「カーティス。航行が出来ないぐらい、ものすごい霧が出てるんだナ」
不安そうなダイクに、カーティスは眉をひそめた。
「まさか。さっきまで晴れてたし、気圧も安定していたのに……。部屋に戻って調べてくる」
そう言うと、カーティスは食堂を後にした。ベルとダイクが窓の外に目をやると、確かに真っ白で
視界が利かないぐらいの霧に覆われていた。
「錨をおろしたほうがいいんじゃないのかい?」
「でも、今、船を停めれば、商船に追い付けなくなるんだナ」
「そりゃそうだけど……」
ダイクはやることがなさそうに、食堂の椅子に腰かけた。誰か昼食を食べに来ていないのか、
サンドイッチがまだテーブルに残っていて、ダイクはそれをおいしそうに食べ始めた。
「お茶を入れるよ」
「ありがとうなんだナ」
ベルは厨房に戻った。やかんに水を入れ、火にかける。その間に、先ほどの下ごしらえの
続きをする。しかし、妙な胸騒ぎがして、ベルは再び窓の外を見た。外は濃い霧がたちこめた
ままだ。
ガクンッ
その時、船が大きく揺れた。慌ててベルは火を止める。
「なんだい!?」
甲板に出ようと食堂の扉を開けると、そこには机に顔を突っ伏したダイクがいた。
「ダイク、どうしたんだい?」
駆け寄り、体を揺する。サンドイッチを口に入れたダイクは何かもぞもぞと言うが、よく聞き取れ
ない。目が泳ぎ、心ここにあらずという感じだ。
「どうしちまったんだい?」
「酒だーーーーーー♪」
と、食堂に陽気に飛び込んできたのはエドガーだった。いつもと雰囲気は変わらない感じかと
思われたが、エドガーもくるっくる体を回して、お酒の銘柄をブツブツつぶやいている。
仕事中のはずのエドガーが現れ、ベルは驚いた。
「エドガー、あんた舵はどうしたんだい!? 錨はまだおりてないだろう!」
このままでは、船はとんでもない方向に動いてしまう。しかし、ベルの声はエドガーに届いて
いないらしく、彼はつま先立ちでバレリーナのように踊り続けていた。
ここでようやくベルは、「まさか」と思い、耳をすませた。
唸り声のような、歌声のような、音色が聞こえる──ッ!!
ベルの背筋は凍りついた。
「ハーピエル……」
噂に名高い、男の船乗りを惑わせ、つかまえて食べるというモンスターだ。
間違いない、最悪だ。
「ど、どうしよう!」
エドガーが舵を握っていない今、船は流されてしまっている。行先は船の墓場だ。錨をおろして
船を停止させなければならない。いや、その前にハーピエルをなんとかすることが先決だ。
ベルは甲板に出た。深い霧が立ち込め、船全体がなんとか見渡せる程度で、海面はほとんど
見えなかった。いつ座礁してもおかしくない。
ベルの目に真っ先に飛び込んできたのは……
「わーーーーーッ!
船長を食べないでーーーー!!!」
まさにハーピエルに襲われるドノバンだった。
ベルは腰の包丁を手に取り、そしてハーピエルに投げつけた。料理をする包丁をこのような
ことに使うのはしのびないが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
ハーピエルがベルに気づき、包丁をさらりとよけた。包丁が甲板に突き刺さる。ドノバンから
離れたハーピエルの隙をついて、ベルがドノバンを担ぎあげる。なんとか船内へ身を隠そうと
ドノバンの重い体をひきずりながらベルはメインデッキを全速力で歩いた。
「上ッ!」
はっとベルが上を見上げる。ハーピエルがこちらに急降下して攻撃をしかけてきたのだ。
ベルはドノバンを力任せに大砲回廊へ続く階段に投げた。そして自分も飛び込む。
間一髪のところでハーピエルの攻撃を避け、ベルとドノバンは階段を転がった。ドノバンは
相変わらず意識がないようだったが、ベルは痛みにうめきながら起き上った。
なんとかハーピエルから逃れた。船内までは追ってこないが、時間の問題だろう。
大砲回廊にはグーリーがいたが、エドガーやダイクと同じで幻影を見ているようだった。
グーリーに構わず、ベルはノックもせずに医務室の扉を開けた。
「ランバート、いるかい!? あんた強いんだろう、なんとかしておくれよ!」
ランバートはいたが、返事をしてくれることはなかった。彼もまたブツブツ何かを言っている。
ベルは引出しやらをあさり始めた。耳栓が出てきたが、今更みんなに耳栓をしたところで
ハーピエルの魔力から解かれるはずないだろう。そうだったら、今までたくさんの船が助かっ
ている。薬の棚も一通り見たが、今の男どもを正気に戻せそうな薬なんてあるはずもなかった。
「あぁ、本当にどうしたらいいんだい?」
焦るベルのもとに、ヘラヘラしたランバートが寄ってきた。
「メル先輩〜。結婚したら丘の上の小さな家に住みましょうね〜」
「あんた私にケンカ売ってんの?」(怒)
イラッとしたベルは、机の上にあったペンを手に取った。ぐいっとランバートの襟ぐりをつかみ、
顔を自分の前に近づける。
カキカキカキッ……
額に「バーカ」と書き終え、ベルはニヤリと笑った。
「死んだら、あの世で、みんなしてあんたの顔を笑ってやるよ!!」
そう捨て台詞を吐くと、ベルは大股で医務室を出て行った。
ダカート号に響く呪いの歌声はやむことがない。
ベルは甲板へ上がる階段に座り込み、ハーピエルの様子をうかがっていた。
手にはダイクの店から拝借した鋼の剣を握りしめている。手のひらに汗をかき、ベルは何度も
剣を握りなおした。
女の船員は私一人。
ハーピエルと戦えるのは、自分一人だ。
ベルは自分の心臓が早く脈打つのを感じていた。落ち着こうと、何度もゆっくりと深呼吸をする。
[ そうだな。 お前たちの船を導くようなものを……『船の女神』なんてのは、どうだ? ]
ある人の言葉が頭に浮かぶ。
「ふんっ、ハーピエルが地獄へ導いてくれるっていうのかい。これじゃダカート号は全滅だよ!」
あれ以降、ダカート号クルーはヤズムのことを一言も口に出そうとしなかった。触れない
ようにしていた。食堂の扉も閉ざされたままである。もう誰も開けることはないだろう。
ベルは剣をぎゅっと握った。
どうせ死ぬなら、船の女として、戦って死のうと、そう思う。
「よし、やるよ!!」
気合を入れたその時!
コツ コツ コツ …… … …
「……?」
近づいてくるその足音にベルは気付いた。ハーピエルのものではない。甲板を歩く誰かの足音。
ベルは身を乗り出し、その人物を探した。
霧の向こうから現れたのは、1人の少女だった。
少女が腰に下げた剣をスラリと抜き、ハーピエルに向け身構える。
ベルは確信した。
「船の女神」が来てくれた──と。
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